月曜日, 4月 28, 2008

愛してるよ、カズ~ を視て

私はこのテレビを視て、涙が止まらなかった。そして自分なりに時をかけて考えてみました。まず自身に問いかけてみる。
あなた(お前は)は自分の子供が不治の病に犯されています。その状況を、見ず知らずの赤の他人に、自分の子供が死んでいくまでの状況を伝えたいと思いますか・・・?

私個人がその状況に置かれたならば、出来るだけ身内で周りの干渉を受けず時を過ごしたいです。周りに知らない人がカメラを持ってその状態を撮影しているなんて、私はその状況を考えるだけで虫唾が走ります。こんな考えはおかしいでしょうか?

しかも,
この状況が今後時あるごとに報道されると思っただけで・・・・。それにも増してこの状況をDVDで販売し、誰かの懐に1円でも利益を発生させると考えると・・・・。

自分の子供がこういう状態に置かれると想像力を失くすのだろう。いや失くすはずだ。仕方ないことだろう。すみませんでした。

それではこれを企画・撮影した製作者はどうか?
NCC(長崎文化放送)制作 ディレクター志久弘樹氏。彼の子供・身内が不治の病に仮に犯されたとき、彼は他のディレクターもしくは自分自身でこれをドキュメントしTVで放送するだろうか?答えを聞いてみたいものだ。

彼らは口を揃えて言います。”上総君の命の輝きをたくさんの人に伝えたい。彼が生きた証を多くの人に伝えたい”と主張したいようです。

マスコミという一面を持つTVドキュメントを通じて・・・?

ある尊い一人の生命の鼓動を、世間の見ず知らずの他人にわざわざ伝える必要があるのか?世の中では子供は多く死んでいる。多くの死んでいった子供たちは精一杯生き、生を全うし家族や周辺の人に看取られ、彼らの心の中で生き続けながら彼の生涯を終えていくのである。

”上総のことを記憶に留めて置きたかった”と仰っているようだが、自分たちの心中に、心静かに留めておけばそれでいいのではないか?
彼の不幸をわざわざ衆目にさらす必要があるのか?

もし、人の死を見ず知らずの他人に知らせることが記憶に留めることならば、他の死んでいった子供たちは?身内のみの記憶にとどめられて死んで逝った他の子供達は不幸なのか?

人間が欲求する喜怒哀楽の中でも共有の度合いが大きい”哀しみ”を強調し、視聴者にアピールし共感を得ることがテレビ局の仕事であり、これにより視聴率を得てスポンサーを獲得し自分たちの生活の糧としているシステム上、このことを否定するわけではありません。

しかし、公共の限られた特権を得ている電波で、他人のあまりにも激しい哀しみを提供するのはいかがなものか?

一般人の日常の哀しみの度合いが少なくなるのを助長してまで視聴率がほしいテレビ局・製作者の主張とはいったいいかなるものか?問いかけてみたい。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私はこの番組を見て命の大切さを改めて知ったので報道はいいと思います。
まぁ遺族の方の考えはわかりませんが

ゆうぞう さんのコメント...

確かに視聴者はTV番組に自身の日常にはないものを求めているのであるが・・・。
幼い子供の死。
切なく・痛々しいリアルな状況を公共電波のTVで放送していいのか?
お笑いと同じ感覚でよいのか?
これはどう考えても反則行為ではないか?

「プロの芸人が長年培った笑いも、素人の子供を使った笑いの前には負ける。」
とビートたけしが言っていた。

ビートたけしや松本人志は子供を利用した笑いはあまり行わないようだ。
芸人としてのプライドがあるのだろう。

所ジョージ。素人・子供などを利用して笑いを取るのがうまい。
構成作家なのだろう。勘違いの節があるが彼は芸人ではない。
所ジョージ自身は面白くなく、存在がウザイ!黒子に徹すればよいのにと
思うのは私だけか?。ところが、彼の番組。
”笑ってこらえて”や”初めてのお使い”などは
プロの芸人のお笑い番組より明らかに楽しいし、面白い。
もちろん彼のウザいマイナスイメージでの司会進行が、より素人の面白さを引き立たされるとの
計算がある?と考えるとスゴイと思う。
TVのお笑い番組を見ていて、そんな背景を考える奴がいるか?と突っ込まれそうだが・・。

お笑い番組であるので子供を利用した笑いも許される。
少々姑息な手段ではあるが・・・。
プライドを捨てても視聴者に笑いを提供しているので、やったもの勝ちである!
そう考えると視聴者に哀しみを提供しているこの番組も有りというAnonymous氏の
意見になるのだろう。